あにゃとりあ・つーしん

トルコ発・中東発のニュースや話題のできごとを翻訳。転載は自由ですが、誤訳により発生した不利益の責任は負いかねます。


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janvier 2014

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60年代イタリア『La Dolce Vita(甘い生活)』時代を象徴するトルコ人ダンサー アイシェ・ナナがローマで亡くなった。

アイシェ・ナナはローマ上流階級の社交場であるナイトクラブ『ルガンティーノ』で裸でダンスを踊るという一大スキャンダルを巻き起こし、バチカンからも注意を受けるほどのダンサーだった。彼女が、映画監督フェデリコ・フェリーニの『La Dolce Vita』にインスピレーションを与えたことでも知られる。

彼女は長年に及ぶ癌との闘病の末、78歳でその生涯を終えた。

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Reha ERUS / ROMA 31 Ocak 2014

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In Memoriam | Ayşe Nana (1936-2014)

アイシェ・ナナが、ストリップダンスでイスタンブルに衝撃を与えたのは1950年代末のことだった。中東出身のスターダンサー セマ・ユルドゥズやインジ・ビロルなどは60年代や70年代。セマは1991年に多くの称賛に包まれて引退した。そのほかトルコを代表するダンサーといえば、オズジャン・テクギュル、レイラ・サヤル、ビルセン・アイダ、アイセル・タンジュ、ネジュラ・アテシュ、そしてゼヌベ。彼女らも後には映画に出演し、彼女らを称える歌さえつくられた [*]。

"Nana gitti Parise / Kaldık Semiramis’e / Semiramis yine hamile / Düştük Türkan Şamil’e |

ナナやパリへ。私たちはセミラミスとともに取り残された 。セミナリスはまた子を孕んでいる。私たちはトゥルカン・セミルのように落ちぶれた "

[*]Top Turkish Talent by Jasmin Jahal, January 200

78歳のアイシェ・ナナは数ヵ月間、ローマでがんと闘う生活を送っていた。イスタンブル出身のアルメニア人であるアイシェ・ナナは、1950~1980年代にかけてイスタンブル、ローマ、パリでダンサーとしてのキャリアを重ね、後年は劇場やダンススクールを営んだ。

1958年11月5日、彼女はトルコとイタリアの両国で議論を巻き起こした。ローマのナイトクラブ『ルガンティーノ』でおこなった彼女のパフォーマンスが原因だ。『 L'Espresso』誌は、タツィオ・セッキアローリ[1]が撮影した彼女のヌード、トップレス写真を掲載・発行し、イタリアのカトリック界からの非難を真っ向から浴びた。そしてアイシェは「契約書なき奴隷」「淫乱ダンサー」などのレッテルでがんじがらめにされたのだ。彼女は国外追放となるはずだったが匿名の資産家の助けて追放を免れている。
そしてその事件はフェデリコ・フェリーニの代表作『甘い生活』にインスピレーションを与え、ナディア・グレイが作中でアイシェのパフォーマンスを演じることとなったのだ。

さて、アイシェ・ナナは一度サロ・バルサモという男性と婚約していたことがある[2]。

[1]タツィオ・セッキアローリ(1925-1998年7月24日):イタリア人写真家。「パパラッチ」の語源となったことで知られる。1995年に通信社 Roma Press Photo を設立。
セッキアローリは、フェリーニの『甘い生活』に登場するパパラッツィオという役のモデルとなった。フェリーニはもっぱら食事の席でセッキアローリやその友人たちの体験談を聞くことで大衆ジャーナリズムへの造詣を深めた。
フェリーニがパパラッツィオという役を作り上げた1950年代、セッキアローリはまさに「パパラッチ」として活動していた。セッキアローリをはじめ、彼の同業者セルジオ・スピネッリ、ヴェリオ・キオニ、エリオ・ソルキらは『ヴェスパ』で著名人のスクープを追い掛けた。
皮肉的なことに「パパラッチ」という単語がつくられるころには、セッキアローリはイタリア映画産業の内部に入り込んでおり、パパラッチ的な撮影スタイルは用いていなかった。
後に彼は、映画スターをスタジオや自宅で撮影した気取らないスナップ写真で名を上げることになる。
なお、「パパラッツィオ」の語源には諸説あり。イタリア語で「オウム」を指す"papagallo"と「男性」を指す"ragazzo "をもじったという説があり、フェリーニはこれを支持していると言われている。彼の幼少期の友人で「虫の飛び回るブンブンという音をまねていた子」のあだ名から。
いずれにせよ、「パパラッツィオ」からパパラッチという俗語が生まれた。

[2] 1966年、イタリア人記者サロ・バルサモは女性のビキニ姿を掲載するグラビア雑誌『Men』を立ち上げた。
バルサモはほかにも『Relax』誌、『Le Ore』誌の発行に携わりいずれも成人男性をメイン読者に想定していた。
一方で、『Cronaca italiana』誌は、イタリアをあらゆる視点で切り取った年代記に興味をもつ人を読者とし、膨大に写真グラビアにページを割いていた。
彼の妻アデリーナ・タッティロは、イタリアの性風俗雑誌出版における先駆者として知られている。彼女は1960年代後半、イタリア社会の大衆意識の変革に貢献。
『Prayman』発刊に至り、タッティロはHugh Hefner や Larry Flynt などの出版人とイデオロギー闘争を繰り広げる。性の解放と偏狭的な虚偽のモラリズムからの自由を求めて。1960年代、タッティロはエロティックなストリップ漫画週刊誌『Menelik』で成功を収める。代表的なキャラクター『Bernarda』とともに。1965年、タッティロと彼の夫(後に離婚)はティーンエイジャーの少年向けの『Big』誌でも出版界に頭角を現した。
なお『Playman』は1967年に発刊。当時イタリアで発禁となっていた『Playboy』と似た体裁の雑誌である。
彼女は2007年の2月1日、しばしの闘病を経てローマで78の生涯を終えた。

Posted 31st January by M.A.M
Labels: In memoriam Italian profile Word origin

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mozaik
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イズニクで用水路掘割作業中に東ローマ帝国時代のもとの思われる、人面を模した床面モザイクが見つかった。

情報によれば、ベイレル地区アフィヨン・スルタン路地で用水路の掘割をおこなっていた作業員が、深さ2メートル地点で遺物を発見。この出土品に歴史的価値の可能性を感じた作業員がイズニク博物区間の職員に連絡したという。
博物館職員による調査の結果、この出土品は東ローマ帝国時代のものと考えられ、人間の顔のモザイク画が施されていることが明らかとなった。
現在、この人面モザイクは、警察も博物館職員とともに保管されている。また出土地点周辺の広域調査が予定されており、それにより全体の大きさや、この場所に家屋や寺院などがあったかどうかが明らかになりそうだ。

Muhabir: Halil Ataş

BURSA
29 Ocak 2014 15:19 (Son güncelleme 29 Ocak 2014 15:21)

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iznik
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イズニク湖岸から約20メートルの場所で偶然発見された古代ローマ時代のバリシカ教会の遺構の全容がこの度初めてあきらかとなった。このバシリカ教会は約1600年前につくられたものとみられる。

このバシリカ教会は、ブルサ広域市がイズニクでおこなっている「歴史文化遺産航空撮影プロジェクト」で撮影された航空写真に、偶然写っていたという。740年の地震による地盤沈下で湖底に沈んだと考えられている。
今回、イズニク周辺の航空写真で、「回廊宮殿」として知られていた地域から500メートルほど東、湖岸から20メートル離れた場所で巨大な建造物の遺構がみつかったとウルダー大学文理学部考古学科のムスタファ・シャーヒン教授が明らかにした。
また、同教授によれば、東西に長いこの遺構の詳細を空中から調査する作業が続いているという。
同教授は、「キリスト教ではバシリカ聖堂とよばれる複合施設が水中にあることは間違いありません。バシリカ聖堂は水深約2メートルの深さに沈んだ状態だということもわかりました。今日までまったく知られていなかった建造物が、偶然とはいえ、再発見され、日の目を見たんです。」と話した。
この遺構は4世紀ごろ建造されたと同教授はみている。「イズニクで大規模な地震がたびたびあったようです。なかでも最大規模のものが740年頃に発生しました。考えられるのは、740年頃の地震で建物が崩壊。その後1999年のマルマラ地震で、ギョルチュクで起こったような地盤沈下が発生した。その地盤沈下の結果として、聖堂が崩壊して湖底に沈み、今日まで見つけられるのを待っていた、ということです。」と述べた。

将来は水中博物館に?

シャーヒン教授は、現在進んでいる遺構周囲の調査と清掃により、バシリカ聖堂の全容が明らかになるだろうと語っている。
一方で、バシリカ聖堂の建材が何であるなど、はっきりしたことはまだわかっていない。シャーヒン教授は、「将来的には"水中博物館"などとして活用できるポテンシャルもあると思います」と述べた。
また同教授は、遺構のみつかった地区を第一級の古代遺跡に指定して、同地区でのダイビングを規制する必要性も指摘した。

27 Ocak 2014 11:35 (Son güncelleme 27 Ocak 2014 11:57)
BURSA - Haluk Yüksel

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moore
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観光地として熱烈な人気を誇るトルコの「観光の顔」が、ハリウッド女優ジュリアン・ムーアに決定。現在ムーアはロサンジェルスで新しいトルコ観光PR動画の撮影中だという。

AA通信首相官邸デスクからの情報によれば、文化観光省オメル・チェリキ大臣が先日、観光投資協会でハルウッドスターの起用について発言。
アジアとヨーロッパをまたぐトルコは恵まれた自然・歴史・文化から、近年観光の要所となっている。
中東地域の政争にもかかわらず、「地中海の揺りかご」と称されるのは、非常に豊かな文化・歴史遺産ゆえだろう。またほかに類をみない素晴らしい自然の恵みも併せれば、観光地として世界でも有数のポテンシャルをもつ国といえる。
このポテンシャルをよりアピールしていきたい考えの文化観光相は、昨年と同様、2014年もPRキャンペーンを続ける意向だ。
文化観光省は、観光選択肢の豊富さをアピールし、観光収入を増大させる方針から、「海・ビーチ・太陽」に加え、都市観光や治療目的の入国、文化、温泉、ゴルフ、宗教、学会を目的としたツーリズムにも力を入れている。この観光資源の豊富さを、ハリウッドスターを通じて全世界に知らしめる。文化観光省はすでにムーアと契約を交わしており、現在撮影がスタートしている。
トルコの新PR動画はロサンジェルスで撮影が進んでおり、来週には完了予定。2月にはトルコで公開される。またジュリアン・ムーア自身も来月、PR動画の告知のためトルコを訪れる予定である。

代表作は『羊たちの沈黙』、『暗殺者』『ジュラシック・パーク』など

ムーアは、キャリル・チャーチルの『Money and Ice Cream with Hot Fudge』などマンハッタンで多くのブロードウェイ作品に出演していた。また、『The Edge of Night』といったテレビ番組にも出演し、TVドラマ『アズ・ザ・ワールド・ターンズ』ではエミー賞を受賞。
映画女優としては1990年に、『Tales From the Darkside : The Movie』でデビュー。1992年には『ゆりかごを揺らす手』、『逃亡者』で一躍有名に。同作ではハリソン・フォードやトミー・リー・ジョーンズなどの著名な俳優と共演するチャンスを得た。1995年には、ヒュー・グラントとW主演の恋愛コメディ『9か月』、シルヴェスター・スタローンとアントニオ・バンデラスが出演した映画『暗殺者』でも役を射止めた。
1996年にはアンソニー・ホプキンスとともに、画家パブロ・ピカソの一生を描いた『サバイビング・ピカソ』という映画に出演している。
その後、スティーブン・スピルバーグ監督の『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』では女性古生物学者を熱演。このほか、『The Myth of Fingerprints(邦題不明)』にも出演した。1997年には『ブギーナイツ』でオスカー最優秀助演賞にノミネートされている。
コーエン兄弟の1998年作品『ビッグ・リボウスキ』では、裕福な男性のヒステリックな娘を演じたムーアは、その後、アルフレッド・ヒッチコックの代表作『サイコ』の新バーションでマリオン・クレーン役として出演。1999年には、
ロバート・アルトマン監督『クッキー・フォーチュン』、オスカー・ワイルドの戯曲『理想の夫』で、ルパート・エヴェレットとも共演している。この年も、『ことの終わり』で、オスカー最優秀女優賞にノミネートされた。
2000年にはリドリー・スコット監督の『ハンニバル』(『羊たちの沈黙』続編)でアンソニー・ホプキンスとともに主役を演じたムーアは、2003年には『めぐりあう時間たち』、『エデンより彼方に』などの作品にも出演している。2003年にはオスカー最優秀助演女優賞、最優秀女優賞にもノミネートされるなど、同じ年に2度もノミネートされた女優の1人だ。『エデンより彼方に』では、ヴェネツィア国際映画祭で最優秀女優賞(ヴォルピ杯)を受賞している。

26 Ocak 2014 13:41 (Son güncelleme 26 Ocak 2014 13:43)
ANKARA- Şenay Ünal

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